苗字から見た字体変更
(VISTA以後)

 戦後まもなく、当用漢字の制定に際し、字体が変更になった漢字は多い。それにともなって戸籍が新字体に書き換えられることはなかったが、日常生活では自分の苗字を新字体に書き換えて名のる人が多くなった。今日、「廣澤」は「広沢」、「濱邊」は「浜辺」という具合に、日常用いる苗字の字体が戸籍の字体と異なる人が多いのは、このためである。

 書き換えが行われたのは、当用漢字に限らない。「辻」「芦」「葛」「樽」といった字も、当用漢字の字体変更にならって、JIS90のような字体で書くことが多くなり、すっかり定着していた。たとえば、つい二、三年前までは、全国どこの電話帳でも、「辻」のしんにょうは一点、「芦」は草冠に戸、「葛」は草冠に「渇」のつくり、「樽」は木へんに樽という、JIS90の字体で示されており、今日PCで出せるJIS2004の字体を見かけることはまず無かった。

 ところが、最新の電話帳(個人名ハローページ)では、すべての「辻」が二点のしんにょうに変わっている。電話帳では、どんな字でも作字して、掲載者が望む字体で載せることが可能なのだが、PCで資料を集め製版するのが一般的な今日、数の多い「辻」をPCでは出せなくなった一点のしんにょうで示すことが手間がかかりすぎるためだろう。そのためか、二点のしんにょうの字に違和感を覚える「辻」さんや「辻本」さん、「大辻」は多いと思われるのに、問答無用で一斉に行われてしまった。なお、苗字と地名に用いる字は、共通なことが多い。兵庫県芦屋市や奈良県葛城市は、公式HPの市名に今もJIS90の字体を用いている。JIS2002の字体には違和感があるからだろう。

 日常生活で新字体や新字体にならった字体を用いる人が多くなったころには、新字体も旧字体も同じ字だという認識が誰にでもあった。そのため、行政が戸籍通りの字体を強要することもなかった。ところが、この認識が薄れた今日、戸籍どおりの字体でないとだめで、契約なども無効になるという好ましくない風潮が広まっている。国に求められるのは、戸籍通りの字体を強要することではなく、常用漢字などをもとに、さまざまな字体をその異体字として登録するリストを作ることであり、そのリストにある字体ならどの字体を用いてもよしとし、契約なども有効とすることだと思う。戸籍の場合は、せっかく戸籍統一文字というものをつくり、それぞれの字体に番号も与えているのだから、見出しの漢字はPCで出せる字体とし、文字番号を併記するようにすれば、戸籍の電算化もスムースに進むのではないかと思う。参議院の公式サイトを見ても、字体違いの字はたくさんあるが、この方法をとれば、電算化とも両立できるのではないだろうか。

 「辻」などの場合、問題なのは、長年親しまれてきたJIS90の字体が、PCで容易に出せなくなったことである。出す方法が皆無ではないが、かなりの知識が必要となり、出せてもPCごとに表示が違ってしまうこともある。字体の変更にあたって、固有名詞への配慮が一切なかったことが間違いの始まりだといえる。一般の語彙なら、PCで出せない字を含む語は他の語や表現に置き換えたらいい。しかし、固有名詞は置き換えが利かないのだから、真っ先に配慮の対象となるべきものである。

 当用漢字の制定に際しても、固有名詞への配慮はまったく行われなかった。というより、当用漢字は、固有名詞を完全に無視していた。そのことは、「伊」「藤」「崎」「岡」といった苗字ではごく一般的で誰もが読める字が当初の当用漢字には含まれていなかったことでも分かる。これは、当時の委員の中に固有名詞に詳しい人が誰もなく、固有名詞に用いる字はあまりにも多様で切りがないと思い込まれていたためだが、固有名詞を構成する字の種類は意外と少ない。現在は固有名詞にも配慮して決められた第三、第四水準の漢字まで含めれば大半の苗字がウェブ上で表示できるようになったのだが、固有名詞への配慮が不十分であるため、まだ表示できていない苗字もある。

 上の表に載っている字は、わず
かに50字余りに過ぎない。この程度の数なら、JIS90の字体を残し、せいぜい対応するJIS2004の字体を加えることも可能だったはずである。常用漢字に入らない字は新たに字体を設けないという文字政策の当否については、別に論じてもいいが、ことは置き換えの利かない固有名詞に関することなのだから、改めて対策を考えなおしても遅くはないと考える。「しま」ならば「島」や「嶋」だけでなく、「嶌」「嶼」「隝」「陦」「隯」といった多様な字がPCで出せるのに、「つじ」「あし」「くず」「たる」などは「辻」「芦」「葛」「樽」といったなじみの無い字体でしか出せないというのは、不公平である。固有名詞への配慮を欠いた字体変更の再検討を求めたい。
 


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